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駿河雛人形のルーツを探ると天神にその発祥をみることができます。
この天神とは、平安時代の学者であり、政治家の菅原道真のことをさします。平安末期から道真は、「学問・雷電・農耕の神」と崇められる様になり、天満天神社に参拝する風習が行なわれる様になりました。こうした信仰から、全国各地で土、木、練り物、張り子、掛け軸など郷土色豊かな天神人形が作られるようになりました。
江戸時代から全国各地で作られた天神人形ですが、志太地区でも明治時代の始めにかけて練天神(志太天神)が作られるようになりました。
そして駿河雛人形のルーツでもある練天神を作り始めたのが大井川町に住んでいた青野嘉作氏(天保8年〜明治36年)でした。青野嘉作氏は桐塑(桐の粉と生麩糊を型に流して固めたもの)に顔や衣装を彩色した煉天神の制作をしておりました。
その後、青野嘉作氏の弟子の大須賀芳蔵氏(嘉永3年~大正10年)が練天神に衣装を着せて現代の天神人形の原型(現在の人形と同じ作りで胴が藁胴でできており、衣装は布製)を生み出したと考えられております。しかし、衣装着天神は最古のものに嘉永6年(1853年)のものが現存しており、江戸末期にはすでにこの地方で衣装着天神が作りられていたと考えられ、大須賀芳蔵氏以外も複数の制作者がいたと思われます。大須賀芳蔵氏が制作した衣装着天神は「雛天神」とも呼ばれました。
静岡県中部地区(大井川町周辺から沼津辺りまで)では<三月の節句に、天神人形を「男の子のお雛様」として飾って祝う風習があります。一番、特大、番外と呼ばれる幼児が座ったほどの大きな衣装着天神が盛んに作られ、親しみを込めて「天神さん」や「天神様」と呼ばれています。
三月三日は桃の節句(ひなまつり)をする風習が広まっていたが、静岡県中部地区では明治初めまで初節句を迎える子には男女を問わず、天神人形を贈り、飾る風習がありました。しかし明治維新により多くの幕臣が徳川家の移封に従って府中(静岡市)・田中(藤枝市)に入り、江戸の雛文化が駿河にも広く普及し、女の子のために、内裏雛を贈る風習が加わってきました。その結果、女の子は内裏雛。男の子は天神人形を贈る様になりました。
全国各地で様々な天神人形が作られていましたが、衣装を着た「衣装着天神」は静岡県中部地区独自のものでした。他地区では見られない、大きさ、豪華さが特徴的です。
また初期の衣装着天神の衣装は、ビロードといわれた朱子地のような布地で作られ、後ろは半分が赤紙、もしくは白紙、袴が下までないのが特徴的です。
全国各地で江戸雛と京雛をまねた田舎雛が作られていますが当時の駿河の国(静岡県)では、大須賀芳蔵氏の弟子たちによって節句人形として衣装着天神の他に内裏雛や高砂などが制作されました。藁の胴体部分も他地区と比較して太い藁胴が使用されており、胸の部分はカーブに合わせて斜に削られております。この太い藁胴を使用しているのは、大井川から富士川の県中部地域のみ。この地域でしか作られていない理由としては、この平野部では稲藁が入手しやすかったと考えられています。衣裳も特徴的で上下の衣裳の製作が別々になっており、その結果分業が可能となり量産化される様になりました。
こうした他地域に類のない大型のお雛様が誕生し、長い間に受け継がれてきた技術が認められ平成6年(1994年)に「駿河雛人形」は、経済産業大臣(当時は通商産業大臣)に「伝統的工芸品」として認定されました。そして現在でも伝統の形を守りつつ、住宅事情にあわせ小型のものも製作し、後世に伝統や技術が残る様に日々努力しております。
※現在では静岡で製作された天神人形・内裏雛は全て「駿河雛人形」と定義づけられているが、伝統的な形や仕立て等の「駿河雛人形(天神人形・内裏雛)」を製作している工房も当店が静岡最後の工房となった。